映画―わが愛の遍歴と近著のご紹介

最近、私は「シネマが呼んでいる1 シェーン 白馬の騎士伝説とアメリカニズム」という本を東京図書出版から刊行しました。「シェーン」というのは、ご覧になった方もあるかと思いますが、1953年に日本で公開された不朽の西部劇です。私は小学6年生の時に見て、すっかり魅せられてしまいました。あれから60年、齢70を超えて、「シェーン」に対する思い断ちがたく心と知識のすべてを注いで一冊の本を書きあげたものです。

この本を読んだ友人から、拙著は映画「シェーン」に対する恋文である、とずばり言われました。私の本意を見事に言い当てられたな、と思いました。妹からは、「この本は愛にあふれている」との手紙をもらいました。そう感じてもらえたなら、本望です。

別の知人からは、これほど詳細な分析をした映画の評論は見たことも読んだこともない、とのコメントをいただきました。そして、「シェーンとはなにものか」という最後のパートについて、これは西部劇を通して語られた社会評論であるとの指摘を受けました。かねてより、私は映画を社会学的視点で捉えたいと願っていましたので、このような評価をいただいて、わが意を得たりと思いました。

拙著は、たった1本の映画への思いが1冊の本となりました。「映画を見たことはないけれども、本を読んでいるうちに映画を見ているような気分になった」とのご意見を寄せてくれた方もいます。自画自賛ではありませんが、拙著にそういう喚起力があることを知り、私は自分の思い入れが独りよがりではなかったと心の中で喜びを噛みしめました。

一昨年、私は古希を迎えました。そして70歳を超えるとともに、少年時代へ、少年時代と密接不離な関係にあるその当時見た映画のもとへと回帰したくなりました。帰巣本能が頭をもたげてきたのでしょうか?

私の偽りのない実感を言えば、帰巣本能というより、「映画が私を呼んでいる、私を手招きしている」という表現がぴったりしています。敗戦の1945年、私は4歳でした。戦後、私は少年から青年に成長していく過程で、映画特に米国映画、それも西部劇の影響を受けました。私は映画と共に育っていったようなものです。その青春の映画が私を誘っているののです。

そこで、本のタイトルの前に「シネマが呼んでいる」と入れることにしました。

私は現在、私の思いを綴ってみたい映画が洋画と邦画を合わせて20本くらいあります。

何を最初に取り上げようか?迷いは全くなく「シェーン」という西部劇について書くことに決めました。なぜ「シェーン」を選んだのか、それは、私が小学6年の時に見たこの映画は私の永遠のマドンナのような存在であったからです。ほぼ60年間想い続けてきた恋人のようなものです。私が少年の時に見た数知れない西部劇の中でも、「シェーン」はひと味もふた味も違う、魅力的な映画でした。

さて、書きあげた作品のタイトルは「シネマが呼んでいる1 シェーン 白馬の騎士伝説とアメリカニズム」です。なぜこれほど「シェーン」に惹かれるのか、シェーンとはいったい何者か、を探求したのがこの本であり、その結論がタイトルになりました。

「シェーン」のストーリーは単純明快です。無宿者のシェーンは、たまたま旅の途中でワイオミング州の辺境のとある小さな田舎町の近くで農業を営む入植者のジョー・スターレットの土地を横切ろうとする。このあたりは、大牧場主のルーファス・ライカーが支配していたが、近年、米国政府の法律を後ろ盾に、開拓農民が入植して自分たちの土地を囲い始めていました。スターレットは、そのような入植者のリーダー的立場にあり、ライカーと鋭く対立していたのでした。水と食事のもてなしを受けたシェーンは、スターレットの農場で働くことになり、大牧場主と入植農民との抗争の中に巻き込まれるます。対立は次第にエスカレートし、ライカーはプロの殺し屋ウイルソンを雇う。ライカーがスターレットをおびき寄せて殺害しようとしていることを知ったシェーンは、どうしても自分で行くと言い張るスターレットを制して、自らライカーのところに赴き、ウイルソンを含めライカーたちを壮絶な銃撃戦の末に倒して、この地を去っていきます。

「シェーン」の特徴あるいはその魅力の源泉は、一つは、米国で最も美しいと言われるワイオミング州のグランド・ティトン国立公園を映画の舞台にしていることです。物語は、最高峰のグランド・ティトン(標高4197メートル)をはじめ屹立する7つの白銀をいただく美しい岩山を背景に展開します。草原、澄み渡る青空、蛇行して流れる川、素朴な農家の家々や家畜、野生の鹿やバッファロー等、画面はみずみずしい風物詩に満ち溢れています。哀調を帯びた主題歌「遥かなる山の呼び声」(The Call of the Faraway Hills)も素晴らしい。

二つ目は、自然主義とでもいうべき徹底したリアリズムで農民の生活ぶり、家やサルーン(酒場)、さらには激しい殴り合いやガンファイトが描写されていることです。だからと言って、暴力場面にマカロニウェスタンのような殺伐感はありません。それは、この映画のリアリズムは、シンボリズム(象徴詩)とリリシズム(抒情詩)に支えられているからです。この映画のシンボリズムについて触れるとなると、監督のジョージ・スティーヴンスの資質についての言及から始めなければならなくなるので、これ以上触れるわけにはいきませんが、単純化して言ってしまえば、「シェーン」では、悪も悪なりに、美的な普遍性が追求されていると私は思います。リリシズムについて言えば、主人公シェーンは、ジョー・スターレットの一人息子ジョ―イの憧憬と愛の視点で描かれていると言うところにこの映画の大きな特徴があります(原作の「シェーン」は、ロバート(映画のジョ―イに当たる少年)の口を通して語られていいます)。これが映画「シェーン」に独特のロマンティシズムの香気を与えていると言えるでしょう。

三つ目は、「シェーン」は恋愛映画である―少なくともその要素を多分に持っていると言うことです。ジョー・スターレットの妻マリアンとシェーンとの慕情、これがとても切なく美しい。西部劇で、これほど哀切極りない恋愛劇を見せてくれるものは滅多にありません。

拙著は、これらの「シェーン」の特徴あるいは魅力を様々な角度から分析し、そのいわれを解き明かそうとしたものです。それでは、その特徴(魅力)の源泉とは何か?

私は、この本の最後で二つのことを指摘しています。「横溢するアメリカニズム」と「白馬の騎士伝説」です。

「シェーン」は、開拓者精神、労働への賛歌、敬虔な宗教心、家族愛、コミュニティへの愛着、ヒロイックな自己犠牲の精神、建国(独立記念日)への思い入れ、人工的でない厳しくも美しい米国の原風景的な、バイソン(バッファロー)やムースが草をはむ草原の大自然などなど、米国が危機に陥ったとき自分が帰るべきふるさとのような要素にあふれています(人によっては、それが鼻につくことがあるかもしれませんが—)。米国100年の映画の歴史の中で、西部劇部門のベスト・スリーに「シェーン」が選ばれているという理由もその辺にあるように思います(米国映画協会の評価)。

しかし、「シェーン」は、単にアメリカニズム一色だけの映画ではありません。私たちは、もっと普遍的なこと、つまり心の琴線に触れる不易な人間の美しさと痛ましさ―男の友情と誇り、結ばれぬ恋情、台頭する新興勢力と滅びゆく者の相克、レアリスムとロマンティシズムの絶妙のバランス、少年の憧れと愛、永遠のテーマである善と悪の対決等を「シェーン」の中に見出すことができます。どこからともなく現れて困難に直面した人々を救ってまたどこかに消えていく「白馬の騎士伝説」は、国境や地域の境界を越えて多くの人々の共感を呼ぶ物語なのです。

「シネマが呼んでいる1 シェーン 白馬の騎士伝説とアメリカニズム」

四六版 並性
144頁
価格(税込み)
1155円

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ftaoki@nifty.com

○後感  <訳坊代表:毛 淑華>

白状しよう、読後感を書く約束をしてページをめくりましたが、途中でギブアップしました。
決して文章が面白くないのではなく、私とその世界の間にギャップが大き過ぎたのです。
青木さん、すいません。

青木さんと最初にお会いしたのはあるNPO関係の仕事でした。中国と日本のNPO関係者が真剣に議論を重ねている姿を見て、アジアの関係者を一堂に集めて意見交換し、見識を高めていく場があったらいいねなんて、適当に口を挟みましたら、青木さんはすぐ行動に移し、翌年、「東アジア市民社会フォーラム」を立ち上りました。東京・ソウル・北京での開催を経て、今年の11月に東京に戻り、百名以上の出席者、日中韓三言語の同時通訳付きの一大イベントに育ちました。
一民間人が社会を動かしたこと、私はこの目にしました。
そこまで出来たのも、青木さんの信じる力によるものだと思います。
人間を信じ、市民社会の力を信じ、夢を信じていたのです。
11月のフォーラムが終わりましたら、ぜひ青木さんに寄稿をお願いしたいと思います。