悪魔の言語

悪魔の言語――といったらどんな言葉を連想しますか。

おどろおどろしい呪文? 魔界か地獄で使われる言葉? いえいえ、いま私達が使っている、この日本語のことなんだそうです。

なんでも日本に初めてキリスト教を伝えたあのフランシスコ・ザビエルが、日本語のあまりの難解さに辟易して「まるで悪魔の言語のようだ」と評したとか。受験英語を勉強していた高校生のころ、ある英文学者のエッセイでこのエピソードを知り、とても興味深く読んだのを覚えています。

もっとも「悪魔の言語」と呼んだのは、日本語の文法書を編纂していた別の宣教師という話もあって、本当にザビエルの逸話かどうかはっきりしません。いずれにしてもヨーロッパ言語の体系からすればさぞ異質だっただろう日本語に、神父が「悪魔」と毒づいたというのは面白い話です。

どのへんが「悪魔的」なのかというと、まず「人称代名詞が無数にある」ということ。確かに1人称だけでも、私、僕、俺、わし、おいら、我が輩、余、それがし……。いくらでも思いつきそうです。同じく2人称も、あなた、君、お前、貴様、汝……と、相手によってさまざまに使い分けます。さらにすごいのは、これほど大量の人称代名詞がありながら、それらを1つも使わなくても、文が成り立ってしまうこと。なるほど学習者を惑わせるために悪魔がわざわざ複雑にしているかのようです。

*****

さて、訳坊でいま私が担当させていただいているのはコンテンツ翻訳、とくに中国語から日本語へのゲーム翻訳です。ゲーム翻訳で一番楽しいのはなんと言っても、ゲームに登場する各キャラクターのセリフの翻訳です。

セリフと言っても、ゲーム翻訳の場合、映画やドラマの脚本を訳す字幕翻訳や小説の会話文を訳す文芸翻訳とは少々わけが違います。下訳の段階で翻訳者の手元に送られてくるのは、ゲームから抽出された原文のテキストデータだけ。エクセルファイルにずらーっと並ぶダイアローグは、いったい誰のセリフでどういう情況なのか、背景説明は一切ナシ、という場合が多いのです。

実際のゲーム画面も分からないまま、テキストだけを見て「たぶんこんなシチュエーションなんだろう」と想像力をフル稼働して訳し進めていくわけですが、ここで悩ましいのが、人称代名詞と口調をどうするかです。

中国語も英語などと同じで、例えば1人称は基本的に英語の「I」に相当する「我」ひとつですんでしまいます。ですから原文を一見しただけでは、発言者が誰で、それが老若男女どんなキャラクターなのか見当がつきません。しかし日本語は話し手(と相手)の性別・年齢・身分・立場・性格によって、前述の人称をはじめ口調や語尾にさまざまなバリエーションがありますから、あるていど会話主体が特定できないと訳が当てられません。分からないからといって「老若男女どんなキャラでもOKな中立的口調で」といわれると、かえって頭を抱えてしまいます。

もちろん、手はあります。1人称は全て「私」、2人称は「あなた」にし、語尾は「です/ます」にしてしまえばいいのです。実際にはクライアントであるゲーム会社さんがローカライズのさい、ゲーム画面に合わせて訳文を手直ししていきますから、そうしたリライトを前提に「ベタ訳」を求められることもあります。

しかし例えばバトルシーンで敵キャラと「私」「あなた」「ですます」調で会話していては緊張感がありませんし、王様も兵士も魔女も仙人も子どももみな同じ調子でしゃべらせるのには抵抗があります。だいいちちっとも面白くありません。それにベタ訳すぎると翻訳者としての能力が疑われやしないかと心配にもなります。

そこでこちらも可能な限り、セリフの発言者を割り出し、そのキャラにふさわしい日本語訳を当てようと懸命になります(それにクライアントのリライトの手間が極力省けるような完成度の高い翻訳を! というのが訳坊の方針でもあります)。原文のわずかな手がかりから推理したり、インターネットで元のゲームの公式サイトや海外ユーザーのレビューを調べたり。気がついたら翻訳そのものよりそうした確認作業に頭を使い、時間を費やしていることもしばしばです。

男性キャラだと思っていたけどどうも女性らしい、老人口調にしていたら実は子どもだった、AとBのセリフが逆だ……などと途中で気がついて、訳文をすっかり書き換えることも。そんな作業を繰り返し、それでも納品後にゲーム画面で確認したら、やっぱりキャラとセリフがズレているのかもしれないと思うと、悩みは尽きません。

これがもし、中国語から英語への翻訳だったら、「我」は「I」に一発変換できるのになあ、語尾や口調にこんなに悩まずに済むのになあ……なんてパソコン前で苦悩していると、ふと聖ザビエルの肖像が脳裏をかすめ、悪魔の言語――とぼやきたくもなるのです。

読後感 <訳坊代表:毛 淑華>

翻訳者にゲーム翻訳を依頼する時に、私はいつも逃げています。

毛:そこはニュートラルに・・・  → 翻訳者:日本語はニュートラルにできない!!

毛:じゃ、ノーマルに・・・→ 翻訳者:つまらなくなる!!!

毛:ええ・・・と、好きなように・・・つまり、女だと思えば女だし、男だと思えば男にしちゃえばいい。どっちもつかない時はお姉系で。→ 翻訳者:ふざけないで!!!(;`Д´)

でもみなさんは最後、必ずベストアンサーを出してくれています。

その裏にこんなにたくさんの努力があったことを、阪本さんのエッセイを読んで、改めて思いました。

本当にいつもありがとうございます。

きっと皆さんの苦労があって、世の中の誰かが幸せになっています。